憤りと労働運動

3/20
 ここのところ、すさまじい勢いで解雇が起こっているため、首都圏青年ユニオンにも相談がたくさん寄せられています。全国の労働組合でも同様だと思います。
 ただ、気になることがあります。このすさまじい解雇にもかかわらず、労働組合への加入者の数はあまりにも少ないということです。厚生労働省発表でも15万数千人以上と言われている製造業での非正規労働者で解雇された人々は、ほとんど泣き寝入りしています。連合傘下、全労連傘下、全労協傘下、中立系も含めても2000名前後しか組織されていないのではないでしょうか? どうしてなのかを考える必要があると思っています。

 このこととも関わる問題意識で、以下のような小文を以前に書きましたので、ご笑覧ください。
<「しんぶん赤旗」2008年12月17日付から転載>
現代日本の若者が「怒り」を忘れているようにみえるのはなぜか――新自由主義と対抗する<組織化>の課題
河添 誠(首都圏青年ユニオン書記長)
 日本の若者が怒りを忘れているように見える。私が活動のなかで出会う若者の多くも「やさしい」人たちで、傷つきやすく繊細である。「怒り」の感情をストレートに表出することなどめったにない。さて、この「怒りの忘却」ともいえる状況はどのように形成され再生産されているのだろうか?
 一九九〇年代以降の新自由主義改革のなかで大量に生み出された派遣労働などの非正規労働のなかで、労働者は「器用さ」を過剰に要求されることとなった。あちこちの仕事先の仕事内容・人間関係に即座に対応できることが働くうえで、生きるうえでの標準とされるからである。しかしながら、こうした種類の器用さというものは、貧困のなかでは獲得されるものではない。さまざまなことに挑戦するチャンスに恵まれ、幼少期からさまざまな成功体験を積んでいくことによってはじめて、何かをやり遂げる自信をもつことができるようになるのであって、貧困のなかで挑戦するチャンスすら与えられずにいる場合、自信を失い、器用にふるまうことの困難な状態になるのが普通である。現代日本においては、こうした貧困な人・不器用な人ほど、階層化された労働市場の最下層に位置づけられていく。もっとも劣悪な労働環境・生活環境に、もっとも不器用な人たちが追い込まれ、生きづらさを感じている。
 若者が感じている生きづらさが、じっさいにはさまざまな社会的要因からくるものだったとしても、「器用に生きなければいけない」という規範が社会的に過剰に強制されているために、「自分が不器用だからわるいのだ」と思い込まされ、自分自身の感情を押し殺してしまうことになる。であるから、「声をあげたり、怒ったりするのはフツーではない」という雰囲気が若者のあいだに蔓延するのである。このことによって、結果として、下層の若者が、その生きづらさを社会的な怒りとして表出する回路が見事に遮断されることになる。下層が怒りの声をあげない状況とは、下層の存在が不可視化され、社会的に抹殺される状況でもある。
 この状況をどう突破するのか?ここで考えてみたいのは、「組織化」の新しい可能性である。「組織化」を、労働組合に加入するという意味以上の、もう少し広い位置づけで考える必要がある。たとえば、首都圏青年ユニオンに加入した若者たちは、団交などの応援に参加し、そこで不当解雇されて怒っている他の組合員の存在を知ることになる。怒っている他者を見ることによって、認識そのものが変わっていく。自分と同じように「能力不足」などと決め付けられ不当解雇にあっている他者がいることに気づく。また、住み込みの仕事を解雇されてホームレスになりかかった組合員の話などを聞いて、自分よりもさらに厳しい状況にある他者の存在に気づくことになる。「組織化」されることによって自分以外の他者の存在を知ることを通じて、個別化された自分の生きづらさから、それが社会的につくられたものであるとの認識を深めていくこととなるのである。そうして初めて、怒りを社会的に表出する回路を若者自身が獲得することができる。新自由主義と対抗する怒りを組織化するためにも、下層の若者自身を「組織化」することが不可欠の課題となると思われる。
 なお、本稿と関わって、下記の本を参照されたい。湯浅誠・河添誠編・本田由紀・中西新太郎・後藤道夫著『生きづらさの臨界――"溜め"のある社会へ』旬報社、二〇〇八年一一月刊、一五〇〇円+税。

3/20
河添さん
 私は、以前新聞に掲載されたこの河添さんの文章を、自分のバイブルのように感じていました。自分自身、様々な取り組み/活動の源がこの「怒り」にあります。掲載された記事を今なお切り抜いて座右の銘にしておりますが、いまここであらためて出てくるとは、ちょっと驚きました。言うべきことがあるのならば、何度でも言うべきものと思います。なぜ「怒り」が組織に向かわないのか、憲法で保障された労働組合の力となり得ないのか
これはやはり教育の問題でしょうか?
綿貫

3/20
竹内 常一です。河添さんの論への応答。
 私たちは「憤り」をどう教えるかという問題意識のもとで「不利益に黙っていない」「みんなで決めてみんな守る」ことを基本とする、子どもの集団づくりを試みてきました。「憤り」と書いたのは、「怒り」は知性を介することで「憤り」、正義を追求する「憤り」になると考えてのことでした。
 ですが、このような問題設定は教育界でも、社会的に評判の悪いものでした。そうしたなかで、ケンカがなくなり、いじめがひろがっていったのです。
 ケンカをつうじて自分たちの遊びのルール、遊びの世界をつくることがなくなりました。もうケンカをしているのか、野球をしているのか分からないような、「三角ベース」の草野球はみかけられませんし、そうした経験のある若者がいなくなりました。

 そんななかで、「怒り」が身体症状となり、行動障害となり、精神症状となる子どもが多くなりました。「怒ると、自分が壊れる」「自分が壊れるから、怒らないようにしている」という子どもが、きっと「憤る」ことのできない若者、いや、今の日本人の原型なのでしょう。
 こうした問題状況の中で、あらためて「怒り」と「憤り」を行動的かつ遊び的に子どものものにしていく可能性を探っていますが、「壊れてしまう」という子ども相手に四苦八苦しています。
 そうだとしても「怒ること」から「憤ること」へ、「私憤」から「公憤」への道を探ることが大きな課題であることに変わりありません。

 河添さんの問題提起は、『「生きづらさ」の臨界」のなかでの湯浅さんと河添さんとの意見交換とかかわっているのでしょうね。ケアと社会的正義との関連をどうつかむかという問題です。
 この問題は反貧困フェスティバルの「働くことを学ぶ」分科会の議論のなかに、とくに菅間さんのフロアへの応答のなかでも取り出されていたようです。
 そうした広がりある問題としてずっと以前から議論されてきたもののように思われる。もう少し考えを詰めてみます。

3/20
竹内常一さま。
河添です。
丁寧な応答をいただきまして、ありがとうございます。
 自身は、むかし、竹内さんの著書『子どもの自分くずしと自分つくり』を読んで衝撃を受けて、あれこれと考えてきました。ただ、今回、書いた私の小論は、竹内さんたち(高校生活指導研究会)が考え実践されてきたこととうまく結びついた文章にはなっていないかもしれません。それは、おそらく、私自身が竹内さんの『少年期不在』青木書店で論じられているような「壊れてしまう子どもたち」の問題をうまく理解しきれていないことに関わるように思っています。私ももう少し勉強して、みなさんと議論したいと思います。ありがとうございました。

3/21
河添さん
 「赤旗」掲載の論考は、その日に読みました。たしか、三菱ふそうの宣伝の日だったように思います。その後、『「生きづらさの」臨界――"溜め"のある社会へ』を買って読みました。あなた方の問題意識が、よく理解できる優れた論考・書物だと思いました。

 以前に、山田さん・清水さんに来ていただいてお話を伺った際に、私から述べたことなのですが、「器用さ」が要求されるようになったのは、1990年代からではなく、もっと早く、1980年代に入ってからだと思います。
 その根底にあるのは、オイルショック以来の低成長―安定成長(路線)経済の下で、それまでの高度成長期のような需要の右肩上がりの拡大が頓挫し、一律大量生産・ライン生産方式による生産が行き詰まって、「多品種少量生産」「スポット生産」方式に全体がシフトして行く中で、個々の労働者にも、それまでのような単純労働ではない「多能工」化が強制されるようになったことがあると思います。ある複数の工程を管理する「スポット」を、ひとりの労働者がまかなえるようになることが強要されたのです。

 これは無理やりの過程で、そのため「自己啓発ができない者は職場を去れ!」という強い圧力がかけられたように記憶しています。しかも、この時期からの「自己啓発」は、文字通り「自己」負担による能力開発で、現在の「技術承継」に関する企業の無責任ぶりは、ここに始まったといっても過言でないと思っています。
 他方で、この時期には、NC旋盤の普及やオートメーション化の進展によって、「熟練工」の解体も進んだように思います。
 これが、一方で「器用さ」を過度に強要しながら、他方で、製造業派遣のような単純機械的労働をはびこらせる遠因になっているように、私は常々感じてきました。

 賃金体系の側面では、終身雇用制を背景にした年功序列型賃金体系から、「職務給」が俄に喧伝されるようになってきたのも、この時期だと思います。いまの「能力給」に繋がる流れです。
 生産組織のみならず、賃金自体をお荷物な「コスト」扱いし始めて、安い労働力を求めた「生産の空洞化」が強く指摘され始めたのも、この時期だったのではないでしょうか。
 よく、「雇用構造の急激な変化」がいわれますが、その基礎にはこのような、1980年代以降の資本主義的生産構造の、生き残りをかけた姿態変換があったと思います。当時の労働運動が、個別の課題のバックボーンにあるこのようなトータルな変化をどれだけ把握していたのか、私にはまったく分りません。
 しかし、「器用さ」を過度に要求されたのは、けっして「若者」だけではないことは、背景として理解していて欲しいと思います。

 ただ、当日も山田さん・清水さんには申し上げたのですが、社会に出て行く人生の「第二の入口」の時点で、そのような「完成度」を要求するのは以ての外であることは、1990年代以降の特徴として、まさに河添さんたちが「怒り」を顕わにするのも当然のことでしょう。
 幼いうちからそのように「思い込まされている」としたら、やはり、教育の問題が大きいとは思いますね。本田由紀さんとの鼎談で、「不器用さを改善していく方向性」について議論がされていましたが、そこには、ひじょうに気をつけなければならない、陥穽があるように思っています。
 この週末は、自分の仕事に追われて「派遣村」系統の支援ができずに残念に思っています。                      松井 活

3/21
河添さんの問題提起への感想
 私がいる職場(神奈川県の高校)、労組の中にいての感想をかきます。あたりまえでつまらないことを書くかもしれませんが良しなに。
 まず、こんにちの悲惨な労働状況に関わらず、何故、労働組合の組織率は低迷し続けるのかについては、端的に言えば組合が闘わないから。その執行部レベルが具体的で直接的な取り組みを呼びかけないからであり、あるいはすでにその発想がうしなわれているから。だと私は考えています。

 私の組合で、若年層に限らず組合に加入することを、拒みあるいはやめることを考える人と話すとき共通して聞かれるのが、「何をやるところなのかわからない」「組合が見えない」というもの。
 具体的に、生活への不安や困窮、そこから起こる違和感や、怒りを共有し、表現し、訴えていくことが出来なくなった組合は、たしかにその存在意義を感じられないし、すでに労働組合とは何であるかという認識が出来上がっていれば別だが、そうでなければ、近づこうと思わない。また、多くの場合職場の人間関係で加入するにしても、なにか目に見えてやっていることが無ければ、誘うにも誘えない。何かを勝ち取れようが勝ち取れまいが、勝とうが負けようが闘うことなしには、負けたのか勝ったのかすわからない。
 そして自分たちの要求が何であって、何をやるべきかということが確認できない。

 実際、経験的でしかないが、まわり(職場の仲間)を眺めていてもかつて組合員であったが辞めてしまった人中には正義感が強く、問題意識もっている「まじめ」なひとが多いようであるし、(ただやめてどうなる、どうする、とはならなかった)むしろ組合に残っている人の仲に(活動家は別として)、惰性的なものを感じる。また、分会ごとで見ても、
熱心な活動家がいて、職場での日常的課題に丁寧に対応し、頻繁に議論の場を作ることを心がけているところとそうでないとことでは明らかに、組織率が違っている。
 よく組合の青年層で集まって組織課題をぎろんするとき必ず、出てくる議論は、とっつきやすく闘争色を極力ださないほうが良い、といういわば「はじめは騙す方針」だが、これだと、ある程度考えをもっていたり、正義感がつよかったりする人を逆に遠ざけてしまうことにもなりかねない。

 要は河添さんも言っているように「「組織化」されることによって自分以外の他者の存在を知ることを通じて、個別化された自分の生きづらさから、それが社会的につくられたものであるとの認識を深めていくこととなるのである。そうして初めて、怒りを社会的に表出する回路を若者自身が獲得することができる。」ということが当然の原理として踏まえられていないということが問題であり、そして、「怒りの表出」を何時(労働者以前と以後で)、どうやって回復するのか、(または竹内さん書いたように「憤り」に変えていくのか)その仕組みをどうやって作るのか、という問題だと私は考えています。

 それは、きわめて教育の在り方とも関係していると考えています。それは学校で働くようになってより多く見せ付けられるのですが、「怒らないようにする」ことが、世間から過剰に要求されているのではないでしょか。人間の自然的感情が喜怒哀楽の4つだとすれば、「怒」だけが不当に不自然に抑圧されている。「怒り」は子供じみたことであり、繭を潜められることであり、時には罰せられることであり、とにかく悪いことであると。学校では殊更にそうです。「大人になろうぜ」なんて怒っていると慰められたりするのもそうですし、そういえば私が小学校のとき黒板の上には大きな文字で「腹を横にする」とういう標語が張ってありました。

だからと続けていいかはわかりませんが定時制高校に来る生徒の多くに接している限り「怒りの忘却」という印象はなく、むしろその逆でよく怒っています。ただその怒り方が、すぐものを壊してみたり、罵ってみたりという形なのです。そして彼らはこんにちの加速度的に酷くなる「競争的環境」から早々と追い出されてきた場合がほとんどです。彼らの怒りは、圧迫によってたまりにたまった溶岩が噴出すような印象です。たまたまそこに居合わすものやひとにとっては「何で私に?」と不運を感じますが、そういうことなのだと思います。

一方で「競争的環境」の中に放り込みさえすれば成長するのだなどという、世迷言が結構説得的に語られて、競争=教育なんて状況に教員も含めて成りきりつつあるので、かつてよりいっそう、教師間、保護者間、生徒間の分断がすすんでいます。それぞれが寂しく孤立化させられています。それが一層「怒」を語ることを躊躇させているのではないでしょうか。なぜなら怒れば周りから浮いてしまう=孤立してしまうという恐怖感があるから。「K.Y.」や「アスペ」なんて呼び名がはやっているのはその反映ではないでしょうか。

結局この悪循環をかえる最良の方法は、怒りに根源を自分たち自身で見つけて、自分たち自身で解決しようとすることを経ずしてはありえないようにおもいます。つまり集団的に「怒り」を共有し、その原因と理屈も共有し、集団的行動によって解決する過程を作る以外には無い。それが今正に労働組合(ユニオン)という実践で示されているのだと思うし、学生・生徒であれば自治的活動をとおして、その固有な権利を主張し実現しようとすること、高校以前にひきつければ、「生徒会」を如何にして「自治会」にするかを、自覚的に組織された教育労働者が取り組めるか、それが自分たち自身の労働を、生徒を管理するものとして君臨させるか、またはともにそれぞれの固有の立場から教育の場を形成する対等な存在となしうるかの分かれ目でもあるとおもいます。

 例えばフランスやドイツの教職員組合はそのあたりのことを自覚的にとりくみ、学校教委育制度の在り方に意見を表明していけるような高校生の全国的自治組織(必要と在ればストも打てるような)もでき、それが先日のゼネストの中心を担った若年層を生んだ。それを見て、かつての教師たちはほくそえんでいたとも聞きます。日本の状況がそういった話からあまりに遠くにあるからといって、ただただ立ち尽くすばかりでなく。日々出来ることをやらなければならないにしても、ただ漫然と取り組むのでなくて、そういった事態を想像して目指したっていいのはないでしょうか。
多分こういった議論ははるか過去になされたことで(芝田進午とか)ここで繰り返すようなことではないのかもしれませんが、日々理想を剥ぎ取られつつある学校で働いていると敢えて書いてみたくなりました。
藤原 晃

3/21
 松井活さんのご意見 (「器用さ」を過度に要求されたのは、けっして「若者」だけではないことは、背景として理解していて欲しいと思います)は、ごもっともだと私も思います。企業社会の残酷物語は、団塊世代や壮年層にも、私たちの知らないところで深く広く傷を残しています。そのこととも深く関わって、この国の労働者の多くが、そもそも労働組合に入りにくい状況を作り上げています。藤原さんも言われている様に、これは企業や国の所為もありますし、大いに労働運動側にも責任があります。労資協調と右翼的労働運動の責任の重大さは当然として、左翼を標榜する運動側にも遠くない責任があります。その大きな弱点は企業内・企業別組合運動が内包する、「労働者多数形成の運動に反する」実に驚くべき排他性です。
 このことはここでは置くとしまして、「貧困な人もそうでない人も」「階層化された労働市場の最下層の人もそうでない人も」「劣悪な労働環境・生活環境にある人もそうでない人も」「成功の体験を積んだ人もそうでない人も」「生きづらさを感じている人もそうでない人も」 、大方が組合に入ろうとはしないと言う問題があります。つまり、こうした経歴の違いによって、労働組合に入るかどうか、それが必ずしも直接的な要素にはなり得ない現状が大きく横たわっているのです。この社会のこうした現実をまず俯瞰しながら、若者の組合結集がなぜ困難なのかを議論しなければならない処に私たちは立っています。

 せっかく民主的教育を受けてきた労働者でも、圧倒的多数が労働組合に入ろうとはしない現実。入ったら大変と躊躇している人たちが多数いる社会。そうした現状を念頭におきながら、現代の若者が労働組合になぜ入らないのかという考察を進めなければならないでしょう。

 敷衍して言えば、怒りの表出回路が見つかったとしても、労働組合に加入して闘うかどうかは、これまた別の問題があるように、若者の教育と労働組合の相関について論じられるのなら、労働組合へ加入しようとしない労働者が、いったいどのような教育によって、またどのような教育的影響やプログレッスによって、労働組合へ積極的関わりを持てるようになるのか。もう少しその点は引き寄せて議論・研究されるならば、これは大変私にも興味の深いものがあります。

 ところで、私としては、怒り、憤り、義憤を抱くことが出来る人間であっても、労働組合に加入しない人は「ごまん」といる現実があることから考察をアプローチする事がここでは必要と考えています。
 そうすることで、「個別化された青年たちの生きづらさ」だけではなくて、「それが社会(全体)的につくられたものであるとの認識を深めていくことになる」のだと思います。

 多喜二の世界に登場する多くの労働者たちは、古い封建の遺制を全身に染み込ませて、民主教育から遙か遠い時代に生かされてきた者たちでした。どのようにして、その彼らを、抵抗闘争から、階級闘争へと駆り立てていったのか、その神髄部分を多喜二は私たちに書き残そうとしました。 産業革命後の組織的労働運動の源泉にも当たるイギリス労働者階級の状態も、このような処から始まっています。歴史的に見ても、多くの労働者階級は無学無知に追いやられ、巧妙な搾取・収奪に怒りが向かわない状態にいつも去勢・抑圧されてきました。それが搾取構造を維持する伝来のメカニズムでした。教育もその一つですが、反労働者的諸法制、企業社会、思想文化、などなど他に沢山のメカニズムが張り巡らされています。それは昔も現代も、老いも若きも、区別無く、しかしそれぞれの対象に巧妙に使い分けられながら、いまに繰り返し再生産されています。

 労働者が労働組合を必要と知り、結集しようとする時に、最も強く働くインパクトは何か。敢えて凝縮して言えば、それは「連帯力」だと私は思います。怒りから義憤、公憤へと転移しても、なおそれは押さえつけられたり、立ち上がる術を見失わされたり、現代社会には、連帯できずにさまよえる労働者が溢れかえっています。連帯の力とは、その労働者に直接接触し、他者を知らしめ、心の裡を揺さぶり、行動へ駆り立てる運動です。
自ら自覚して入ってくる人だけが組織化ではありません。そうした先進的な労働者が何をするかによって、他者の無自覚を覚醒し、立ち上がることの恐怖心を取り除いて回る運動のことです。集団的な結集の意味が実益的実体を形成し始めると、「組織化」は現実社会の有為にして重要な力を発揮しはじめます。それがまた、一人一人の労働者の成長の力へと還元されて、さらなる連帯力に拡がります。

 河添さんの赤旗の小論では、冒頭の問題提起部分に対する結論は、「組織化」の必要性にあると明確に書かれており、ご自身のまとめの処に、ひとまずその方向性は示されていると思います。
現代の若者の、「不器用さ」も「無憤」も「分断された状態」も、それ自体をどう脱していくのかと、議論する必要はあるでしょうが、問題提起に寄り添うならば、ここではむしろ、若者が「労働組合に入ることで、連帯することで、ここが変わる」ことを確信をもって、運動の面から理論的にも明らかにしていく議論(このメーリングリストのように、諸兄の含蓄に満ちた熱心な論考)こそ喫緊であり、その結果を実践的に知らしめていく活動が、いま強く求められていると私は思います。この実践を、青年ユニオン、介護労、公共一般労組、そして青年ユニオンの支える会が、日々実践展開しているのだと確信しております。
小林雅之

3/21
河添さんの提起された表題(件名)にある問題提起について、追記として書きました。
● 河添さんは、「気になることがある」として、「現今のすさまじい解雇にもかかわらず、労働組合への加入者の数はあまりにも少ない。厚生労働省発表でも15万数千人以上と言われている製造業での非正規労働者で解雇された人々は、ほとんど泣き寝入りしています。 連合傘下、全労連傘下、全労協傘下、中立系も含めても2000名前後しか組織されていないのではないでしょうか?  どうしてなのかを考える必要があると思っています」 と、問題点を呈しています。事実はその通りでありまして、労働組合に重大な責任があることには異論がありません。しかしここで問題解明をもう少し突き進めていくならば、労働運動のどこを問題としていくべきか、また入ろうとしない或いは入った労働者にこれからどこを問題にしていくべきか、この二面の認識を深める必要があると私は思います。入らない労働者の事は、前回論考したものを送りましたので、前者の事を書きます。

●諸統計にあるように、この10数年来、正規労働者が激減し、非正規労働者が激増してきました。その間に、正規労働者の首切り・リストラ反対闘争はほとんど発生しておらず(一部を除いて)、未だ全く見るべきものがありません。かつて朝日新聞にも「何の役割も果たせない連合・大手労組」と社説で非難囂々に書かれた有様でした。

●問題はここです。リストラされた多くの労働者は、組織労働者であったはずです。少なくとも平均率18%より遙かに高く「組織化された」労働者でした。いま派遣切りなどに遭っている労働者は全くの未組織労働者です。しかしその彼らが労働組合へ結集して闘いはじめました。反面、100万人の正規労働者は、(相当数)組織されていても立ち上がれずに組合を去った。(見殺しに遭った)。しかし首を切られた未組織の派遣労働者15万人のなかで、37都道府県に組合結成が150件、1800人(しんぶん赤旗調べ)も立ち上がったのです。もう一つ重要な事は、大企業の中では長きに亘って大手カンパニーユニオンしか存在し得なかった歴史の中で、個人加盟ユニオンが、いとも容易に、ストレートに結成された、それも次々と出現していることです。これらの驚異的事実のなかにこそ、労働運動の重要な変化を見て取ることが出来るし、私は大いなる確信を持つことができます。
青年ユニオンをはじめ個人加盟労組が日本労働運動のメインストリートを行進する、飛躍の時代を迎えるかも知れません。

●しかし、現実問題は、支配側もそうは問屋が卸して呉れないでしょう。長くなるといけないので、要点だけにしますと、以前にも少し提起しましたが、@個人加盟ユニオンの働く場所における定着化の取り組みが決定的でしょう。A個人加盟ユニオンの、産別および地域運動との結合、およびユニオン間の連帯したネットワーク強化の必要です。
 他方、支配側は少数組合の追い出しと法規制(労組法改悪など)をしかけてきます。これからの個人加盟労組はこれまでの「ちまちま型」では、この時代の要請に応えきれないばかりか、これまでと違って、財界・支配者側からは、もはや「立派」な消去対象にされていると見るべきでしょう。

●以上、急いで書きましたが、私のように、総評労働運動以来、40数年も荒れ野を彷徨ってきた者からすれば、統計に出てくる組織率を、今更ながら一喜一憂するものでもなくなりました。(そこが、ふやけているのかな?)  大きな「擬勢の組織率」と、小さな「真性の組織率」の異同を考えることこそ、いまは重要な時期に思えるのです。雇用破壊の荒野に朱色の煙があちこちから条々と立ち昇り始めた。そんな黎明の清澄を私は覚えます。
小林雅之

3/24
 一つだけ、先日の投稿に付け加えさせて下さい。
 それは、「若者には、未熟な者として社会に出て行く権利がある」ということです。その未熟さを、シニアが構成する社会の側で受け止めながら、若者が次の時代を作って行く力を自らのやり方で発展させていけるようにする責任は、社会の側にある、ということです。そもそも人間社会とは、そういうものだということです。
 このことは、この場に多数参加しておられる教育者の方々には当然のことでしょうが、そして、社会教育にまで視野を広げて教育原理を把握すれば、理論的にも至極当り前のことでしょうが、何度でも、声を大にして、言い続ける必要があると思います。
 それなのに、経済社会の主要な担い手である企業は、その社会的責任を果たしているのか。若者の「未熟さ」をあげつらい、就職したてから「器用さ」と高い「完成度」を要求し、企業の「即戦力」オーダーに適合しない者を排除してきたのではないか。
 「そんな悠長なことをしていたら、国際競争に負けてしまう」という常套句で、自分たちのギリギリの社会的責任を履践することさえ、傍らに追いやっていたのではないか。
 『「生きづらさ」の臨界――"溜め"のある社会へ』の166ページで湯浅さんがいわれている番組に出てきた、「自分のノートに『我慢する』と書いていた18歳の女の子」の姿は、私も観て胸がつまりました。シニアが声を大にして、「君が我慢する必要などない!」といってあげなければならない。
 これは人間の尊厳に基づく「権利」なのであり、その「権利」を保障するために社会や政治があるのであって、「オーダーに合わない人間を作り替えて、社会に『適合』させる」ために社会や政治の力を利用するのは、本末転倒である、ということを、言い続けなければならないと思っています。
松井 活